4月から無職になった。失業も認定された。日中に街を歩く自由を謳歌している。色々な人が歩いていて、その生活を垣間見ていると、実は働いていない人が、多くいることを想像されられる。生計を立てられない人、という現象が、実は多数派でないことを考える。というのは、平日を歩く人は、何らかの財源があるから働かずに済んでいる人だからである。休日に財務省にデモに行く人こそ、生計が割々の窮乏者なのだ。これを知らなかった私はなんと世界が狭かったことか。自分が仕事や稼ぐことから自由になったために、世の中を思い知ることがとても多い。
まず、収入源は生活に見合うだけで良いことだ。億らなくても経済的自立は成り立ち、いわゆる4%ルールは、数百万円でも適用できる。私は150万円の資産で退職したが、買い貯めてあった本や服が大量にあるので、勉強を好きに進められるし、健康も見た目も増進し、食材と株式だけ買っていれば生活できてしまう。また、会社に骨を埋めなくて良いこと。出世しないのだから忠誠を誓う必要もない。転職先として有望な企業は月収20万円なのだが、私の生活費から考えて、半分くらいは株式を買える。つまり、十分なのである。それに培ったウェブ構築を副業にすれば、年収300万円以下でも資産を積み立てられる。ましてや経済理論に基づく投資手法で買い増せる。そして何より、趣味にお金がかからない。歩くに、食を調えるに、掃除するに、歌って書くに、自由に過ごせる。生活を愛してきたからこそ、愛すべき生活になった。
自由業の人は、この時代に少なくない。皆々銘々の趣味を持っている。私もまだ固定観念が多いのだろう、日々自由を実感する毎日。私の中で、体験の意味を獲得するほど、世の中の常識が溶けて取り払われていく。副らで読んでいる本のおかげもあるだろう。良い人生になってきた。自分の人生になってきた。自由な仕事とは、仕事を自由に扱うことだ。仕事から何を得て、何を得ようとしないか、自分で決めて選んでいることだ。私の人生の目的は、仕事には無い。お金でもない。これを早くに知れて良かったから、家族に感謝して生きたい。先週の土曜は実家に帰り、両親と昼食を共にとった。相変わらず母は料理を多く出してきて、父とは学んだ知識の話をした。そんな家柄に育って心から良かった。