最近世の中を見聞して思い知ったのだが、日本の人は物をあまり買わないで暮らしている。いつからだろう、街を歩いても、店頭の品が売れ残って腐ってしまうのではないかと思うほど、買われない。10分ほど立ち止まって観察した焼鳥屋は回転が良かったが、近所の唐揚屋は半分くらい余るのではないかと思われた。しかし、人の流れなど時間によって数倍や数十倍変わるので、私の了見が常に狭いのだ、という定理で自戒した。というのも、割引時刻が迫っていたため、店舗周りを彷徨していたのである。
私は吝嗇家ではないと思う。人には鷹揚にお金を叩く。しかし、自分には買わせない。買ってあげない。欲しい物がそれほどないからだ。子供の頃の生活が、金銭感覚の全てだと言われる。私は十円の丸川フーセンガムを親の心配のために買ってあげられつつ、箱を勉強机の引き出しに敷き集めた子だった。毎週、買い物の練習だという躾で、近所の商店で好きなものをお小遣いで買うことになっていた。私は柔いところてんしか買った例しがない。ちなみにこの商店は3月末で閉まった。その3日前に実家に帰省でき、アヲハタのジャム瓶を半額で5瓶求め、店長と歓談もできた。
年末から、衣服を買い揃えてきた。50年間買わないで済むくらい買った。スクッブで言えば3箱分だ。そして、全部が半額の綿百だ。今着まわしているのはこのうち数着で、どれも好きな色で、好む様式である。もう流行は追わないし、自分の格好も変えたくない。落ち着いたということ。不惑を前に、無職期の今、人生を棚卸している。何を間違えてきたか、そこから何を学んだか、今何ができるから何をせず何をやるか。この4月の買い物は、8割がた原価で買わなかった。大手スーパーが高いと感じる。昨年までの金銭感覚が狂っていたとしか思えない。どうして1,000円の寿司が安いのか。自責しつつもあり、社会にお金を還流しない宣言な気もして、肩身を竦める。
しかし、買う人は居るし、買いたいから買っているのだろうし、要らないものを買うことこそ無駄だ。そう考えて、私は買わない。必要なければ買わない。欲した時は買うと思うが、経験上、頻度はかなり少ない。今は、食材と株式しか欲しくない。これからずっとそうだろうと思う。ただ、そんな生活者ばかりでないから良い、という理由では倫理的に正当でないと思う。自己都合にすぎる。もっと別の目的を見出せれば、お得に買って暮らす生活に罪悪感を持たずに暮らせそう。一応、株式や債券は買っていくつもりだから、それはそれで総体として許される経済活動になろうとは思われる。