若者は熱い主張をする。私はとても良いと思う。ただ、具体性が希薄で、熱は芯軸のみである。鉄製なら熱いうちに打ちたいものだが、打つべき具体的な形が見えなければ打ちようもない。そこで、あつさは実現した結果が大きいほど薄まるのだ、と述べてみたい。
単純に言えば、鉄の展延性である。金属にあたるものは生まれながらに誰でも持っている。それを若い時に熱するのが学問であり創作でありスポーツである。熱したらいい、灼熱のどろどろになっても。どろったら、一度型に嵌めないと、どんな作品になるか自分でも予想がつかない。その型は、既存の分野でもよいが、自分で鋳造しても良い。もちろん、どろる金属と彫琢する異素材が必要だ。つまり、学友や薫陶の師だ。これらは同じ学年とも限らない。同じ大学の教授とも限らない。もっと言えば、卒業して入社して退職して転職した先でも、師は多くいる。社会がこれだけ発展したので、師は探せば実にごろごろいる。型などいくらも見つかるのである。
現実を知って冷える人は、その型で鋳造され、終える人もある。たいへんな学生生活だった、と。その鉄器でお茶でも淹れて余生を楽しむのである。少しはこのような部分がないと、落ち着いた生活は成り立たないだろう。しかし、完全に冷えた鉄器になれば、再びどろすのは困難である。商品価値がすべてになる。若い時は良いが、錆びた鉄器にならないよう、磨き続けなくてはならないだろう。そこで情報や健康や教養なのである。今月は何をいくら買いましたか?
展延性なので、いくらでも広げられる。広げるほど冷えやすくなる。そう多くは広げられない。では、広く展開できた人は、何が違うのだろうか? 素材である。鉄でなく、炭素合金かもしれないのである。子供の頃に、原子を錬磨焼成させていたので、ダイヤモンドの人もいるのである。それならば、融点はめっちゃ高いし、育てた結晶が大きければ、広がっても熱は衰えにくく、きっときらきらきれいだろうし、すでに人を磨いている。傷ついた、と感じていた人も、ダイヤだと知ったらきっと、その価値で癒され和むだろう。
熱さはいずれ、広がった形になる。形はいずれ確定する。というか、確定させなくてはならない。もちろん、静かに徐冷するのが賢明だろう、少しずつ形にしていけば脆くならない。このように私は金属のたとえで考えてきたが、この文は熱いかもしれないし、寒いかもしれない。人による。着熱させるか、感涙させるかは、私は想定しない。対面しないウェブ記事ではできない相談である。私は文字や動画に熱を引き伸ばして薄めている。これでもだいぶ冷やせたと自負している。晩年は薄い白茶のような記事を著すかもしれない。きっと壮大なのにうっすい内容の建造物のような文であろう。ないし、足場に似たものかもしれぬ。