初めてサウナに行った.正確に思い出すと初めてではない.小さい頃に習っていた水泳が終わると,サウナ室に毎回入れられた記憶があるが,思いは別にない.サウナ室に5分くらい入って出ただけである.サウナの入り方を調べてみると,サウナ室から出て,20度くらいの冷水に浸かることが重要で,しかもこの温冷を何回か繰り返すことが重要らしい.何も知らない私はこの方法を鶏のような頭に浮かべながら,「ととのう」とはどんな感覚なのかと好奇心を募らせてサウナを申し込んだ.
ビルの1階に入ると正午過ぎで,6人ほど行列ができていたが,手続きはすぐ終わりタオルを2種類受け取り,着替えて浴場へ.身体を洗ってから入るのがマナーとの検索知識に基づいて身体を洗い,サウナで座る時はタオルを下に敷くのがマナーとの検索知識を基に小さいタオルを持ってサウナ室へ.男7名が詰まっていて,テレビがついている.サウナ室のベンチに小タオルを敷き,5分くらいじっとする.私は風呂に長居するのが苦痛な人間だが,この機会に克服したいと思って我慢した.
5分ほど後,サウナ室から出て,冷水を浴びた.なるほど冷たいが震えない.冷水の張られた浴槽にも浸かれるのがまず驚いた.頭部の肌の部分は熱さを感じたが,芯はむしろまだ冷たく,その冷たいのが心地良い感じだ.芯の冷たさと表面の熱さの差分が気持ち良いとも思える.検索知識どおりもう一度心してサウナ室へ.今度は5分以上入ろう,そうすれば芯まで温まるだろうと思ったが,芯まで温まるのが正しいのか,危険なんじゃないかと考えはじめ,時々頭を抱えては顔面にわく水分を両手で拭い取って過ごした.
5分かもう少し経った頃,2度目の冷水へ.今度は20秒ほど浸かってみるが,芯まで冷えることがない.夏ならではとも限らない再現性の保証された気持ち良さを得る.3度目のサウナ室へ.今度は芯まで温まろうとする考えを捨て,我慢できるまで入ろうと思った.しかし,予想とは裏腹に,身体は芯と肌との差分をなくす方向へ進み,温度が一致まではしないが,肌の熱さは加わる一方で,芯は氷が溶けた水として,温度を増していく.大袈裟には1度くらい体温が上がったのではないか.というところで限界を感じ,3度目サウナ室から出て,冷水を浴び,満足と欲の飽和もあって浴室から出た.
着替え,チェックアウトし,外に出る頃はまだ感じなかったが,20分ほど歩いていると,なるほど精神はクリアになっていく.1ヶ月ほど鬱々していたのがすっかり消え,前進する建設的な心に変わっている.歩きながら思考は進み,鬱々とした時代の問題が次々解決していく.そうかこれがサウナの効果か,「ととのう」とは心がこうして整っていくことか,サウナに入った後に「ととのう」はやってくるのだ.家に着くまで精神はととのい続けた.
帰宅し,行水し,身体を拭いていると,肌がつるっと滑らかになっている.乾いているのと反対にしっとりしている.妻に話すと,おじさん度が増していると言われる.見た目がおじさんっぽくなったと.なるほど,私は普段おじさんらしくなかったようだが,等身大の私はおじさんだ.サウナが私らしい地点まで戻してくれたのだろう.そういえば歩いている最中に,身体の内部,胃や食道を上ってくる呼気が,吐いたことのない新しい香水のような感じだったが,毒素が抜けていったのかもしれない.腸には日頃負担をかけていたのだろうし.
こうして,サウナによって体内も精神もデトックスが完了した.「ととのう」とは鬱で後退維持の意識が,物理的温度差の反復体験によって,前進建設に変えられることを意味すると感じられた.ただふわふわと漂うだけが自由でなく,明確に方向づけられた意識が何か少しでも意味のあることを生み出すこと,そんな自由もあることを教えられた.リピ確.鬱々としてきたら,そうなる前にサウナでととのいたいとそう思う.