日本人の幸福感は、世界的に見ても低く出る。これは統計の設問設定が世界標準的でないことが大きい結果である。街を歩けば、暮らし向きの落ち着いた人が多いように見受けられ、SNSを覗いても、本気で窮状を訴えている人は少数派である。大体の人たちが、過度に豪華でも貧窮でもない、落ち着いた生活を送っている。
そうであれば、収入の多さには、次の定理が成り立つように思う:心を豊かに使う仕事ほど給与が安い。大変な仕事は収入が高いのは、つまり、激務と知った後では誰もやりたがらない仕事である、という意味である。医師の現状を知った後では、開業医になろうとも思えない。弁護士は人を救うと憧れなければ、繁文縟礼の日常に嫌気がさすだろう。収入の良い仕事は、多かれ少なかれ、庶民の想像を絶するほど、非人間的な仕事なのである。
これだけでも、割りの良い給与に対して憧れを抱くことのない読者を期待したい。だが、それでも勉強ができて健康なのを理由に、高い給与の職に挑戦する人が後を断たない。「一回きりの人生」。それでは、そのように高い給与を得たとして、何に使いたいだろうか。ここを考えずに、単に残高が貯まることを期待する人は、将来、稼いだ大金を失う結果になる。目的の基礎のないところ、建つものは必ず楼閣だからである。お金を蓄えるには、何に使うか、考えていなければ、資産は守れない。
この平均給与の低い暮らしやすい国において、今後に物価が高くなることは考えにくい。庶民の低空飛行のおかげである。こればかりは庶民に感謝しなくてはならない。ここから、生活費は低く抑えることができ、むしろ、この資源の経済の中、少ない資源を回して効果的に効用を得る暮らしが、望ましい生活だと考えていい。つまり、少なく買うときの単価を問わないくらいしか、高収入を持つ目的が見当たらない暮らしが続くのである。
一体、何のために高収入に憧れていたのか。子供を持つための他に何かあるのか。子供を持ったとて、激務では家庭に帰れもしない。子供を育てたいのに、子供に会えない日々、仕事人間の人生を逃れられないとしたら、激務を選択して努力するのは、愚かな選択ではないのか。もちろん、他の理由はあろう。家業を継ぐ必要があったり、身内に借金があったり、死後に資産を遺したいと考えていたり、理由はさまざまであろう。だが、それにしたって、どうして高収入に憧れを持つか、一度は現実的に考えてみるべきである。
日本も含め、世界的に暮らしが楽になったので、景気も株価も過度に下がらない。資産は働いたほど貯まるが、世界的に働いているのだから、それだけ世界中で財が蓄積することは、自然の理として素直な理論である。もう恐慌も大不況も起きないのかも知れない。あの絶好の買い場はもう来ないのだ、このことが、かつて夢見た大金持ちの機会がもう来ないことへの、二重の憧憬となって、私たちの過去を彩ってくれるに過ぎない。