私は、本は少し読みます。動画で聴くのは問題に関する議論や意見で、社会や政治の問題もありますし、個人の問題もあります。なので、日々、多くの問題を解くことに頭の資源を費やしているので、自分の問題はどんどん解決していけますし、社会や自分以外の生活と繋がった解になるので、人の問題の解決に役立つことが少なく、話してよかったと言われることは少なくありません。知見や忠告を得たとしばしば思われます。
さて、そんな私も、ある動機で言語に接してはいません。それは、誰がどう言ったか、です。関心ありません。というか、その筋では本を読みませんし、選びもしません、誰が何を言ったかなんて、どうして大きな問題なのでしょうか。誰々が何をどう言ったかをたくさん覚えて蓄積したとて、何のためですか、何の役に立つのでしょうか。大いに疑問があります、本に接する動機として。
なぜなら、関心を無闇に広げては、自分が薄く希釈されるだけだからです。自分ってそんなに薄めて良いものでもありません。濃い人は隠せば良いだけです、沈黙のうちに。人って多くの思考を操って、いくらでも語れるものです。私はそうですし、私の周りにもそんな人は多いです。けれども、薄い人って、何にも語れないのです。語らないのでなく、語れないのです。自分の中に言葉がたくさんあっても、どの言葉にも誰かの署名が入っているのです。
問題です。ではそんな生き字引、すなわち、名言格言寸鉄言集の頭脳および心が、自分の意見を自分の言葉で語り出すには、何をどうすれば良いでしょうか。弱い人は誰かの言葉を借りるだけの狐だと思えば良いのですね。本当に弱い人をきっと見たことがないのでしょう。強い人こそ弱いのです、本当に弱い人は実に静かなものです。淡々と話を聞き、数語で話に応じ、欲が消えているので決して騙されません。
今動画界隈は特に、関心の経済です。私に関心を持って欲しいという言葉で経済が回っています。静かな人は、その動画から実利だけとります。本の紹介動画なら、本の情報だけとり、紹介者には関心を持ちません、余程の関心を惹かない限り。つまり、関心を人にそう持たないのです。本を読む時も同様で、内容つまり実質を読みます。ある問題についてどんな意見があり、いかなる洞察が可能か、といった問題意識で読みます。誰が何を言うか言ったかなんていう視点では読みもしません。耳年増は退屈で困りますから… 話しかけもしません。
そんな訳で私は、関心経済に捉えられている人々から離れて暮らしています。同じ本を買うというのに、読み方が全然違うのです。私は私で考えるために、本を少しだけ読んで暮らしています。考えたいからです。ただ、もちろん研究者ではありません、プロではないので。従って、専門領域を持っていても自称です。関心領域は別です、専門は私が1万時間、興味を持って研究できた領域で、知見を持った今や、関心は特に持っていませんが、人に伝えられます。私の言葉や主題のベースにあります。
私に関心を持つ人は多くはないと思いますが、私はきっとそんな人の全員に関心は持ちません。ただ、もし実際にお会いすれば、歓談するでしょうし、笑顔で話しますし、笑うでしょう。それでも私は、誰もに特段関心は持たないのです。人間の本質(悲惨への憐み)を知っているからです。つまり、私は誰もに言える事柄をよく知っているため、個人についてそれほど多くの興味を、浅くしか持ちようもないのです。誰があなたのことをそんなに深く知りたいと思うでしょうか?といつも問うて聞いているのです。