見えない知識を更新する

状況は変わる。戦乱の世では、情報が刻々と入ってくるにつれ、情勢の知識が変わるので、戦法を変えて行動する。では、現代において、変わらずに使える知識はあるだろうか。人間に関する知識がそうである。知っていれば単純になる。何が単純になるのか。生活の知恵が単純になるのだ。いくら情報が多く入ってきても、効果的に処理し、大量に蓄え、いつでも引き出せるのである。

本を書くとき、古い固定した話では本にもならない。でも、本は今も書かれて売られる。書いていない人の方が、おそらく多い時代である。語る人も多くいる。四半世紀前はそうではなかった。最近の人は、語りすぎるので普段静かにしている。というのも、騒擾に疲れてしまい、脳を酷使して病む人も増えたが、皆幸せそうである。個性、自己実現、肯定行動という言葉はもう定着し、多くの悲惨さが表面では見えなくなった。

しかし、人間はそう変わらないのである。脳をいくら短期に更新しても、神経の反応が早くなるだけで、現代人は敏捷多感になっただけである。これでは情報も飽和しつつあり、とにかく幸せにしてくれる情報を、とことん浴びまくるのが、現代の生活の主要命題である。もはや学校で習う知識は、ひと昔の常識で、今や信奉者さえ誰もいない歴史上の知識にすぎない。

情報的相対化が進むと、何がまずいか、もはや私もよくわからない。というのも、私はこの私の人生以外は生きられなかったのであるから、別の人生を歩むことにしなければ、今の人生を離れて切り替えることができない。そこまでそうそう自由でないし、そうする意欲も意思もない。ただ、私の人生には信仰があるから、私は私になれた、としか私は言うことも思うこともできないのだ。

問題はあると思う。あまりに多くの言葉が語られすぎている。一人一人が多く語りすぎている。多くを知り、多くを話し合い、多くを共有するのに、何かが生産されたかといえば、何もない気がする。これは物質資源を節約しつつ、幸福を生む時代になったことを意味しはしないか。すなわち、物を作る目的が人の暮らしを豊かにすることだったのであれば、物を経なくても、人を幸せにする経済が、今の情報経済である。ということだ。

情報経済で消費されるのは、若干の電気と、時間である。情報財は時間を消費する。ちなみに、物は空間を消費する。だから、情報財は無限に生産可能だが、人生の時間分しか消費できない。生産品が市場に溢れる性質が、物質財とは違うのである。この認識は、私は考えなくては導けなかった。情報と物質との性質の違いから丁寧に引き出した知識である。このような丁寧さで引き出すと、知識はまだまだ存在すると思わされる。明証する精神の貴重さよ。

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