個性とは「代表性」である

個性って何だろう.私が受けた教育では,個性が重視されていた.当時10代の私にとって「個性」という単語は意味不明で,結局現在までよくわかれていない.様々な個性論を読んではきたが,受けてきた教育の違う年上の世代が外から個性を論じたものなので,当事者として何か得たかといえば肚落ちできずにいた.最近ようやく個性とは「代表性」のことであると納得するようになったので,これについて書いておきたい.

個性 personality は「パーソン」からきているという通説を,「ペルソナ」からきていると読み替えたい.つまり,単数形の person でなく,複数形の persona からきた語だと読みたいのだ.(もしこの語尾について知らなければ,phenomenon と phenomena の関係を考えてもらえるといい.)つまり,人が複数の顔を持つ性質を個性と呼ぶのだ.この辺りは,2010年代に平野啓一郎氏が提示した「分人 dividuality 」の概念と通じていて,私は個人 individuality を「分けられないもの」とはあまり考えないが,複数の顔を持つそのそれぞれの顔を分人と平野氏は述べており,個人でなく分人こそ自分に近いと考えておられる.その分人ないし顔の総体なるものを考えない,つまりそれを「私」だと考えない,というところは私がこれから述べることと同じで,それは何かといえば,複数の顔を持ってしまうその性質こそが個性なのだ,と私は述べたい.

それでは,誰に対して複数の顔を持ってしまうのか.言い換えれば,誰に対してあるいはどんな状況にある時,個性は出てしまうのか.それは,自分と属性の異なる人や集団と対する時ではないか.もし家族や親友のように,自分と性質の似たあるいはほぼ同じと見做せるような人たちと共にいる時,個性をあからさまに作る必要もそのような態度を示す必要もない.同じであっていい.同じような性質を共有しているのだから.しかし,異なる人たちと同じ場にいる時,私は複数の顔のうちのひとつかふたつかを,私の用意した顔として,それを私の顔と思って使いながら相対する.その顔は,私の家族の顔であり,学校としての顔であり,仲間の顔でもある.もし外国にいるなら,その顔は少なくとも日本人の顔であろうし,その年代世代の顔であろうし,その人の性別としての顔でもあろう.つまり,その顔らしく振る舞ってしまうだろう.その時,その強いられたかのような顔とは,誰によって作らされた顔だろうか.その顔こそ,私が所属している集団,あるいは私と同じとされる属性を持つだろう集団,その「代表」として,その顔を持たないか持てない人に対して作らされる顔だろう.まさに,述べてきた顔とは「代表」なのである.私の属してきた集団ないし属性の代表として,私はその顔を持たされるのだ.

この「顔すなわち代表」という概念は,古くから存在する,新しくもないものである.国会議員は国民の代表であるし,会社の代表,団体の代表,生徒会長など,代表者を立てることはよくある.それは組織的に立てた方が円滑に進むというくらい,集団同士が交渉や会話する際に,代表することが日常的に必要になっていることを意味するだろう.また,代表する場合には,一員であるだけで代表することになる場面も多い.会社の外に出れば,その会社の会社員であるというだけで,その会社の代表として守秘義務を負う.地域の場では会社員というだけでビジネスパーソンの代表として見做されるし,保育の場では年代や男女性や住んでいる場所など,属性によって自然と,その属性を持っている層の代表者として会話が進みがちだ.実に多くの顔を持たされ,その顔に沿って振る舞わされている.時には顔の多さに「振り回される」こともあろう.

ところで,私はどこにいても代表として顔を「持たされる」が,それではそのような顔を剥いだ時,つまり何も代表していない私とはどんなものだろう.私が私でいる時,私は何も代表しなくて済むだろうか.それはひとりでいる時間だろう.誰にも顔を持たなくていい,素の自分でいる時間だろう.誰かと会えば,私は顔を持つ.顔を持たないでいられる時とは,誰とも会わない時か,気のおけない人といる時である.(もしそんな時間にも顔を持っていると意識させる存在があるとしたら,やめてほしいと思うだろう.しかし,そうなる立場の職業も世に存在することは忘れてはならないだろう.)その時思うのだ,顔を持たないでいる時,私は個性を持たない.いや,個性を出さずに隠していることで私を癒している.何も代表しなくて済む時間によって,私の個性は消え,何者でもない私として,私は私でいる.社会との接続からオフし,そのインターフェースである顔から電源が落ち,私は顔も個性もない私だけの私になる.

顔のない私,何も代表しない私こそ,私が最も楽しめる時間だと多くの人は思っているだろうし,それを確保することが人として安定して生きるために必要なことだと思う.しかし,それだけでは私は何者でもないので,顔を持って振る舞い,多様性を増す存在として,社会の安定を図るために活動する.人の社会性は社会の多様性を増すためにあるが,その方法は顔を持つことである.これは自然に持つものであろうし,持たされるものでもあろう.ここからわかるのは,個性とは,社会の安定を増すために必要なことであって,私が私として生きるために必要なものだというわけではないことだ.個性は,私が様々な人たちと多様性を広げるために必要な名刺のようなものであって,私が私であるための存在確認のような意味で使うものではないのだ.個性はひとりでいる時間のためにあるのではなく,人と対する時に使う顔なのだから.

作り育てる個性もあれば,時空間を生きるだけで自然と持たされる個性もある.私は何かを代表させられる.それこそ個性なのだ.その何かとは,私の成長や変化とともに私に備わるものもあるし,私が生まれた時から持たされているものもあるし,私が選択したり選択し直したりして選び取るものもある.私がなにを代表させられるか,選べる自由のある社会が求められている.国籍,性別,居住地,肩書など.個性には流動する部分もあるが,変えたくない部分もあるだろう.誰でも自分は何かの代表であり,何かの代表ではない.代表であるということは,そうではない大勢の人たちが背後ないし周りにいるということだ.だから,私は彼らの前で代表として話さなくてはならないし,私はその代表である立場から降りてひとりで過ごす自由も持っている.つまり,個性とは代表性である.ところで,何も代表していないひとりの私である時の私は,何と表現したらよいのだろう.

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